前回の続き
とある人は次のような文章を作ったことがあります。
「森は時間の蓄積、である」と考える。
それが証拠に、今、一万本の苗木を植林したとしてもそれを森ということはできない。
樹齢何百年という老木もあれば、その樹の実が落ちて、今、芽を出したばかりの若木もあります。
そういった多くの種類の樹々が、それぞれの役割を認識しあいながら、かばいあいながら時間を蓄積、していっているのが森ではないでしょうか。
そして時問というものは、消費されていくと考えるか、蓄積されていくと考えるかによって、その人の生きる姿勢が決まるものだと思います。
過ぎた青春は二度と帰ってきません。
日、一日と時間は消費され、生きている時間が減ってゆくと考えると淋しい。
逆に、経験した時間が蓄積していくと考えることができれば強い。
同じ三年間を過ごしても、一年を三回くり返しただけだという人間と、三年の間には、しみじみ三年間の成長の跡がうかがえるというのでは大ちがいだ。