生命を語るとき・・・。
祇園下河原に玉の家という料理屋があります。
ここの庭先にある松は幹のところに斜めの大きな傷あとがあります。
人間でいうと外科手術の縫合あとのような感じだ。
今から約十年前、若い庭師さんが勢定の最中にポキッと折って、かろうじて松の外側の皮の部分がちょっひりつながっている状態になったことがあるそうです。
若い職人さんの顔も青ざめたが、そこのご主人も怒った。
しかしできたことはしようがない。
早く根から掘り出して処分をし、その後に何か代わりの樹を植えるように指示をした。
夕方には宴会のお客様も見えることだし、折れた松がそのままでは目ざわりでしようがない。
目ざわりだけでなく、縁起が悪いと宴会がしらけるというものでしょう。
若い職人さんは、あわてて親方に電話して指示を仰いだ。
親方は当時は病気で自宅療養中だったらしい。
ところが親方の指示は意外だった。
そのままにしてわしか行くまで待て、そしてお前は前刀定を続けうというわけです。
若い職人さんは、それでいいのかと迷ったことでしょう。
しかし、親方のいうことだから仕方がない。
庭に戻って前刀定を始めると、今度は料理屋のご主人がまた怒る。
何だ、お前のところは折れた松まで勢定して金を取る気かというわけです。
そこをまあまあとなだめながら親方を待っていると、仕事で散っていた職人七、八名を集めてかけつけてきました。
そして、まず餅をつかせ、木から分泌している松脂とト分練り合わせ、次に練りあがったものを松の傷口にていねいに塗って行く。
一方、その他の職人はジャッキで松を徐々に徐々に起こしていくのです。
あまり早く持ちあげると、わずかにひっついている皮の部分がちぎれて折れてしまいます。
その状景を想像しようとするなら、マッチの軸を折ってみるとよい。
くの字に折れたマッチを急いでまっすぐにしようとすると、ちぎれてしまいます。
そんなわけだから、作業は夕方から始まって翌朝の明け方までかかったそうです。
当時七十二歳の病気の親方は縁先に寝ころびながら、もう少し右とか左というようにその采配が鮮やかだったそうです。
宴会のお客も、あの折れた松が生き返るだろうかと半信半疑ながら、その采配ぶりに見ほれて朝までつき合ったそうです。
結論を急ぎましょ。
今、その松は、新芽をつけて生き生きと伸び続けています。
私は、この松を見ながらしみじみと感じた。
ひとつは、生命力の強さだ。
皮一枚しかつながっていなくても立ち直れるという力強さだ。
第二には、経験という時間の蓄積の強さだ。
老職人は二十歳のころにこれに似た経験をしたことがあるそうです。
これがなければ、今頃この松はとうになくなっています。